コメント・質疑応答の記録

米野が映像を見せつつこのプロジェクトの概略について話し、藤岡が「再資料化」データベースの説明を行い、ホセ・ベルサレス(サンカルロス大学元教授)が1930年代セブの商業と日本人商人の関与についての講義を行った。

コメント(リカルド・ホセ(フィリピン大学元教授)):藤岡氏が作っている「再資料化」データベースは、ネット上で真偽不確かな情報が溢れているなかで、極めて重要である。1930年代の映像は少ない。フィルムの値段も高かった。また、ベルサレス氏が指摘しているように、セブの商業が盛況で、日本人商人がアクティブだったことが分かる。その一部として大阪バザーがあった。小売業の日本人商人の活躍は明らかで、それは1939年の電話帳からも確認できる。松井家が有力だったことも分かる。一人の日本人が撮影しており、日本人という視点が強くでており、その点が興味深い。他方、場所や日付が記録されておらず、それを特定していく必要がある。例えば、ある店舗は1933年にできており、その店舗が映ったショットがそれ以降に撮影されたことが分かる。また、扱っている商品も、サンミゲルビールなどがあり、複合的だった。また、当時のフィリピンのナショナリズムを象徴するような建物もこの映像には映っている。その後、戦争や開発でそれらの建物はなくなってしまっており、当時の姿を知る上で興味深い。さらには、バザーでの売り買いの様子や、人々が自動車でバザーを訪れていたことが分かる。そのような様子が動画として残っているのは、ほぼこの映像だけだろう。全体を通して、松井家の映像で特徴的なのは、商店が立ち並ぶメインロードは撮られているのだが、有名な政府の建物であるとか、教会とかが映っていないことだ。このような関心の持ち方は、長年フィリピンに住んでいた日本人の大澤清や高橋虎一の手記とも共通している。

質疑応答
質問1:その当時の日本人は、日本軍と関係があったのか?
回答1(ホセ):これらの日本人は商人であり、この映像が撮られた当時はほとんど関係がなかった。

質問2:その後の日本の膨張主義との関係は?この後、10年も経たずにフィリピンが侵略されるので。
回答2(ホセ):この時期には、ほとんど関係がなかっただろう。侵略しようという意図でフィリピンで商売をしていたとは考えにくい。当然、日本侵略後に残り続けた人々もいるが。

質問3:アメリカ植民地期が平和で、日本占領期が戦争という見解が強いが、そのことについてどう思うか。
回答3(ベルサレス):たしかにそのような見解があり、セブでも1930年代がもっとも良い時代だったという見解はある。日本の侵略がなければ、日本人とセブの人々の長い共存はあり得た。日本侵略後は、多くの在留日本人が日本軍に協力をし、場合によっては徴兵もされている。その時になって、共存関係が崩れたわけであり、それまでは近隣住民として平和裏に生きていた。大恐慌の影響はセブではさほど強くなかった。サリサリ・ストアのような街角の商店が、主に買い物の場所だったし、セブ港の主要取扱品だった砂糖もさほど影響を受けなかった。
回答3(ホセ):1930年代が平和だったという前提はありつつも、日本人の関わり方は場所によって異なった。セブやマニラの他に、ダバオなども見ていく必要があるだろう。例えば、ダバオなどでは先住民との関係も重要だったし、日本人も農業移民が多かった。

質問4:結局このような映像資料を活用することによって、どのような成果を期待しているのか。
回答4(米野):これらは貴重な一次資料であり、歴史研究者にとっては有用だろう。これらの映像を広く提供すること自体が成果と言える。社会史、家族史、移民コミュニティー形成の歴史などに役立つ。様々な専門性を持つ人々が、これらの映像の異なる要素の解明に貢献してくれることを期待している。そのような貢献を可能にするプラットフォームを構築し、多様な人々が知識の蓄積を活用できるようにすることも成果だ。もう一点としては、映像を見て感想を述べるという行為自体が高い教育的効果を持ち、研究上も有益である、ということだ。本日のこの場もそのように捉えており、様々な角度からの見解や感想をいただけるとありがたい。
回答4(ベルサレス):特に若い人々に対しては、このような古い映像を見ることの意義は大きい。その時代がどのような様子だったのかを知る直接の経験になるからだ。このような映像とオーラルな(口述)データと重ね合わせていくことも重要だ。この映像のショットは、幾つかのコミュニティにとっては、これ以外には存在しない過去への窓口になっている。
回答4(米野):(質問者がパナイ島出身なので)例えば(パナイ島)イロイロ市の場合、大阪バザーの支店はなかったが、商売の可能性を求めて関係者が訪れている。ベルサレル氏の見解だと、(砂糖の集積地だったイロイロ市に支店がなかった理由は)、アバカなどには関心を持っていたが、なかなか砂糖の売買には進出できなかったからではないか、ということだ。というのも、砂糖の売買は、すでに大手の(アメリカ系、フィリピン系)商社が独占しており、そこに割り込む余地がなかったからだ。
回答4(ホセ):50本のこの映像には、フィリピンの様々な場所が映し出されている。ダバオやザンボアンガもある。例えば、ザンボアンガのショットは極めて貴重だ。

4番映像の上映

コメント(ベルサレス):この部分は稜線からアグサンだと思う。
コメント:ここに映っている人々はバジャウではないか。
コメント:なぜこのような船の映像を撮っているのか。
回答(米野):現時点では分からない。場所の確定もできていない。
コメント(ホセ):これらのフィルムを通してみると、どのようなルートで松井精衛氏がフィリピンを旅していたのかが透けて見える。
コメント(米野):このフィルムでは背景が良く分からない。他方、今後、これらの映像を高密度画像でデジタル化する予定であり、そうすれば背景もより鮮明になるだろう。
コメント(米野):背景からおそらく1928年ごろに撮られたものだろう。また、4番の場合、そもそものフィルムが1927年に製造されている。このショットはダンスが出てくるが、音声は分からない。
コメント:音声を再現することはできないのか。
回答(米野):それは難しいと思う。

質問6:戦前期の日本人の生活や意図について、これらの映像から何が言えるのか。
回答(ホセ):これらの映像はマニラやその他フィリピン各地における日本人の生活について知るのに有益だ。今日は他のフィルムを見る時間がないのだが、ダバオの家々や子供が映っているものもある。さらには、松井家の人々が映っているものもある。他方、マニラの支庁のショットなどは、ほとんどない。何が欠落しているのかという点も、この映像を考える上で極めて重要である。
回答(ベルサレス):セブに関して言うと、戦前のセブに関する映像としてはとても貴重だ。特に、セブの日本人社会を映したものとして。ダバオやマニラの日本人コミュニティについては書かれてきたが、セブの日本人コミュニティについてはあまりない。この前、岡田氏と『Japanese Community in Cebu』という本を出したが。

質問7:その当時のマニラの「郊外」(suburbia)についても分かるのか。
回答7(米野):マニラのものはマニラカーニバルの映像があるが。
回答7(ホセ):カロオカン方面の映像もあるし、マリキナ方面の映像もある。エルミタやマラテも同様だ。

質問8:先ほどの船の映像で、アメリカの旗が上、フィリピンの旗が下となっている。このような配置自体が、1935年の独立準備政府樹立前を表しているのか。
回答8(ホセ):私も、1935年まではフィリピンの旗が上に来ることはないと思っていたが、そうでもないようである。ただし、フィリピンの旗だけを掲揚することはあり得なかった。

質問9:このような映像データは、歴史的関心以外で有用性があるのか。
回答9(米野):歴史研究者ではないのだが、私の役割は、先ほど述べたようにプラットフォームを作り、次の世代も視聴できるように残すことだと思っている。
回答9(ホセ):歴史研究だとやはり文字中心となってしまうので、実際に目で見ることができることは大きい。ただし、インターネット上には真偽が分からず、扱い方も適切でない映像で溢れている。その点から、ショット毎に注釈をし、映し出される行為や事物が何を表しているのかの解明は重要だ。一次資料に正確な注釈をつけ、その上で二次使用をしてもらうのが望ましい。

(文責 岡田)